Biography for Henry Dourif
The original of Henry Dourif biography was written by Robert J. Baptista,
December 26, 2005.
http://www.colorantshistory.org/HenriDourifBiography.html
Japanese version was made by Life is Gas.
|
ヘンリー・ドゥーリフの経歴 著者:ロバート・J・バプティスタ 2005年12月15日(2005年12月26日に加筆)
|
||
|
アンリ(ヘンリー)・ドゥーリフ(1881年〜1967年)。スタンダード・ウルトラマリーン・カンパニーの共同創業者
|
||
|
1881年5月15日 |
フランスに生まれる。 |
|
|
1904年 |
エコール・セントラル(*1)卒業。技術工学分野の学位(*2)取得。 |
|
|
1904年〜 |
ニームで兵役に就く。 |
|
|
1906年 |
フランスの青色顔料メーカー、デジャン・フレール社に技師として就職。後に英国でも同業種で職を得ている。 |
|
|
1910年 |
南米旅行中にニューヨークに立ち寄る。この時にスタンダード・ウルトラマリーン社の創業者であるオマール・T・フリック氏と出会う。フリック氏は同社の第1号プラント(オハイオ州ティフィン)の問題解決をドゥーリフに求め、彼がこの期待に応えたことがきっかけで、その後40年にわたってビジネス上緊密な関係を築いていった。 |
|
|
1912年 |
オハイオの生産拠点が手狭になったため、ウェスト・バージニア州ハンティントンで新たなプラント建設が始まる。 |
|
|
1913年 |
ハンティントンのプラントが操業を開始。 |
|
|
1914年 |
第一次世界大戦が勃発。ヘンリー・ドゥーリフ氏はフランスに帰国して空軍に参加。 |
|
|
1914年9月 |
フランス軍砲兵隊の中尉として部隊に合流。 |
|
|
1915年
|
大尉に昇格。ドイツ軍の砲兵隊の位置を特定する方法の開発に加わり、偵察隊を組織。 |
|
|
偵察隊の任務は低空飛行で行うため、敵軍の格好の的となるため過酷なものだった。偵察機は報告を地上部隊の司令官に向けて投下した後、前線に戻るが、ドゥーリフ大尉は上空からフランス軍砲兵隊の弱点を発見。それまでの「砲兵隊は十分に機能している」という誤った情報を正した功績により、フランス軍の戦功十字章(*3)を受勲した。 |
||
|
1917年
|
戦闘機の建造を促進するため、連合国が組織した委員会にフランスを代表して参加。 |
|
|
同年代表団の一員として米国を訪れ、主に西海岸で大量の材木(*4)を買い付けるとともに、製造工場や航空技術学校などを訪問した。 |
||
|
1918年 |
ヘンリー・ドゥーリフ(当時の階級は少佐)はフランス政府の命令で米国ワシントンのフランス軍駐留上級司令部に着任。パイロットとして技術を磨くことを希望し、米国のパイロット養成学校への入校を認められ、ここで新たな戦闘飛行での訓練を積んだ。 |
|
|
1918/1919年 |
戦争終結後、ヘンリー・ドゥーリフはスタンダード・ウルトラマリーン社に復帰して米国市民権を取得。 |
|
|
1920年 |
プラント責任者に就任。 |
|
|
1925年 |
副社長に就任。 |
|
|
1921年/1931年
|
新生産ラインの導入とともに、工場を拡張。 |
|
|
工場は27エーカー(約11万平米)まで拡大し、従業員も500人まで増えた。産業界向けに600種類以上の顔料・染料を出荷し、国際的な評価を受けていた。ヘンリー・ドゥーリフ氏は工業用着色料の開発・生産のエキスパートとして世界的に認められていた。氏の発明には1924年の塗料用のターコイズ顔料の特許や、1931年のジェルタイプのウルトラマリーンの特許がある。 |
||
|
1947年 |
執行副社長兼技術取締役就任。 |
|
|
1949年 |
フリック氏の死亡後、社長に就任。 |
|
|
1951年 |
マリエッタ大学から名誉科学博士号を授与される。 |
|
|
1964年 |
現役を引退。会社はチェメトロン・コーポレーション・オブ・シカゴ社が買収。 |
|
|
1964年 |
妻イブリーンがフランスのニエーブル(*5)の別宅で死亡。 |
|
|
1966年夏の終わり |
フランスから帰国。 |
|
|
1967年2月21日 |
永眠。享年85歳。 |
|
|
氏の死亡時には娘二人が残された。ポール・ギブソン夫人はパリに、ジョン・サンディファー夫人はコネチカット州グリニッチに在住だった。息子のジャン・アンリとジャックは氏より先に死亡していた。 |
||
|
当時存命だった孫11人のうち、ウィリアム・C・キャンベル夫人の子供であるダイアナ、パトリシア、ブラッドフォード、クリスチーナの4人はハンティントンに住んでいた。またパトリシア(ジョン・ペン・リー夫人)の娘ダブニー・リーも生まれていた。母娘はバージニア州ロアノケ在住である。他の孫はパリ在住。
|
||
|
ブラッド・ドゥーリフは映画俳優になり、1975年の「カッコーの巣の上で」でアカデミー賞候補にノミネートされ、その後50本以上の映画に出演し、性格俳優として高く評価されている。 |
||
|
(*1) |
エコール・セントラルはフランスの中央工科大学で、パリ、リヨン、ナント、リールそれぞれに学校があるが、ヘンリー・ドゥーリフ氏がどの大学を卒業したかは不明。 |
|
|
(*2) |
正しくは「特定」の技術工学分野の学位だが、ドゥーリフ氏が取得した分野については記述がない。 |
|
|
(*3) |
戦功十字章は第一次世界大戦勃発後にフランス政府が作った勲章で、戦場における英雄的行為を称えるものとして陸軍・海軍・空軍の別無く、個人または部隊に授与された。フランス軍が発行する勲章としては最も有名。 |
|
|
(*4) |
第一次世界大戦時、戦闘機の素材は大部分が木材だったため材料確保のためには大量の材木の調達が不可欠だった。それにしても、木製の戦闘機なんて簡単に打ち落とされそう・・・ |
|
|
(*5) |
ニエーブルはフランス・ブルゴーニュ地方の県。ヘンリー・ドゥーリフ氏の別宅があったのは、世界遺産に指定されているロワール渓谷のあるシュリー・シュール・ロワール近郊。氏は他にもパリ16区のスーシェ通りとウェスト・バージニア州ハンティントンに家があったそうなので、本当にお金持ちだったんですねぇ。 |
|
| 情報提供/解説/翻訳: Life is Gas 様 無断転載はお断りいたします。 |